Feb 06, 2011
看板に使用する材質
皆さんが街に行けば当たり前のように見る看板。看板には様々な材質があります。木材、プラスチック、金属などがあります。その中でも、良い材料、悪い材料があります。悪い材質は木です。これは、腐敗しやすいです。腐った木の看板を出してもあまり意味がありません。良い考えは金属です。なぜなら、丈夫なためです。このように金属をお勧めします。冬の近くと、あちこちで道路工事が始まる。安全のために工事をする業者が立て看板を設置するのに、その看板にぶつかる車を頻繁に目撃する。一方通行を通行止めに行っている工事現場では、この先に交通規制という看板をしているが、こんなところに看板があるとは考えていない運転手がそのままぶつかってしまいそうだ。信仰というのは恐ろしい。
名古屋鉄道とファミリーマートは3月31日、沿線の駅や駅周辺を活用したコンビニエンスストア「ファミリーマート エスタシオ」の1号店「セントレアホテルプラザ店」を中部国際空港アクセスプラザ内にオープンした。(名駅経済新聞)
「エスタシオ」はカタロニア語で「駅」のこと。名鉄(名古屋鉄道)沿線の駅ホーム、駅ナカ、駅前など駅周辺の小規模スペースを活用し、「駅周辺で便利に買い物ができるような工夫をする」(ファミリーマート広報担当者)。名鉄は名古屋と中部国際空港をつなぐ「中部国際空港駅」を持つ。
同店の店舗面積は42.59坪。通常のファミリーマートに比べ、「駅でニーズの高い」おむすび、パンなど手軽なワンハンドタイプの商品を多く取りそろえる。そのほか、飲料、菓子、酒類、雑貨や飛行機や電車のおもちゃ、土産ものなど約2,500アイテムをそろえる。また、「できるだけスムーズに買い物ができるように」レジを多めに設置するほか、レジ前スペースを広くとるなどした。manaca電子サービスも利用できる。
「駅を利用するお客さまと、市中やロードサイドのコンビニを利用するお客さまの消費行動は異なる。駅のコンビニを利用するお客さまのニーズに対応したマーチャンダイジングを徹底し、一般のコンビニとは違った店作りを行っていく」と同担当者。
今後、5月上旬までに、「神宮前駅駅前」「豊田市駅駅前」「名鉄一宮駅駅前」「名鉄名古屋駅上りホーム」の4店舗を順次開く予定。5年間で50店舗の出店を目標に据える。
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仙台市のペット関連サービス会社が、被災地のペット救援に奔走している。避難生活などで飼い主が面倒を見られなくなった犬や猫を一時的に預かったり、支援物資として餌やペットのトイレ用品などを被災地に届けたりしている。取り組みを知った全国のペット愛好家の間で支援の輪も広がり始めた。
ペットの救援に当たっているのは青葉区芋沢の「ドックウッド」。代表の我妻敬司さん(40)らスタッフは「自分たちだからこそできる支援をしたい」と思い立った。現在、20人のスタッフとボランティアがフル稼働している。
ペット連れで避難した住民が生活している宮城県内や相馬市周辺の避難所、被災後も自宅でペットと暮らす飼い主の元を巡回し、餌やトイレシート、暖を取るためのマットなどを配っている。
物資は、同社のブログで活動を知った全国のペット愛好家らから続々と送られてきている。「感動した」「頑張ってください」などと記された激励の手紙やファクスも数多く寄せられている。
さらに、プレハブ小屋4棟を設置して、避難生活の長期化などで、飼い主が飼い続けることが難しくなった犬と猫計約130匹を一時的に無償で預かっている。我妻さんは「避難所では飼えないため、倒壊の危険がある家で犬と生活している人もいた」と明かす。
悩みの種は活動資金。被災地や避難所を巡回する車のガソリン代や体調を崩した犬や猫の医療費や薬剤費などは「持ち出し」の状態だ。
我妻さんは「おかげさまで物資は足りており、今は寄付金の方がありがたい」と話している。振込先は七十七銀行宮城町支店(普)5477484、ドックウッドわんにゃん災害支援金。(若林雅人)
宮城県気仙沼市の水産加工会社の社長夫婦がかわいがっていたインドネシアの女性研修生6人が東日本大震災で急きょ帰国を強いられた。別れを惜しむ時間もなく、用意していた手紙も渡せなかった夫婦は、いまも避難所で暮らす。にぎやかな暮らしは断ち切られたが、絆は切れない。その手紙を母国で読んだ研修生は「日本のお父さん、お母さんに会いたいなあ」と涙を見せた。
2009年8月から研修生受け入れを始めた福寿水産。インドネシア人の女子大生6人は特産品のフカヒレ加工を担当。みな明るく頑張り屋で臼井弘社長(59)、妻の美智子さん(56)らはわが娘のように接していた。
あの日。すぐに高台に避難し津波からは逃れた。しかし加工場は柱だけ残して全壊。荒涼としたがれきの海に彼女たちも声を上げて泣いた。横転した船や壊れた石油タンクから流れた油に火が付き、辺りは火の海に。一晩中、街は燃え続けた。
臼井社長は、膝を抱えて座ったすし詰めの避難所の夜を振り返る。彼女たちは普段と変わらぬ明るさ。日本語でつぶやいた。「社長のいびき初めて聞きました」。場がなごんだ。
地震から5日後、ほかの水産加工会社の研修生も含めた計約30人のインドネシア人女性を在日大使館員が迎えに来た。「出発は翌朝」と聞かされていたが、バスは夜に出発。別れを惜しむ間もなかった。
「最後に何もしてやれなかった。いい思い出を持たせて国に帰してやりたかったのに」。美智子さんが握り締めた手の中には、渡せなかった1通の手紙があった。
緑濃い田園にヤシの木々が立ち並ぶインドネシア・ジャワ島スマラン県スクロ村。帰国している研修生の一人、ショフィヤさん(21)の実家を記者が訪れ、手紙のコピーを渡した。
「日本のおかあさんです。どんなに遠く離れていても、あなたがすてきなかわいい女性になり、おかあさんになり、おばあちゃんになって、みんなに愛されて、みんなを愛することができる人生になることを、心から祈っています…」
ゆっくりと文字を追うショフィヤさん。みるみる大きな涙が浮かんだ。
みんな優しかった。言葉が分からない自分たちに何度も何度も説明してくれたお母さん。一度だけ寝坊したときも怒らず、笑って許してくれた。ショフィヤさんの口から1年半を過ごした「第二の故郷」の温かな思い出が次々にあふれてきた。
握り締めた手紙にはこうも書かれていた。「生きるということ、それが喜びです。6人ともかわいいかわいい私の娘 さようなら お元気で」
「日本のお父さん、お母さんに会いたいなあ」とショフィヤさん。いつかすてきな女性になって、復興を遂げた気仙沼を再び訪ねるつもりだ。
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